徳川光圀(みつくに=水戸黄門、1628〜1700)は、一度だけお忍びで出かけたことがあります。
その時のお供は80名でした。
(根岸茂夫「秋元家の家臣団と行列」、川越市立博物館、2012/11/24)
徳川光圀は、 『大日本史』を編さんに着手し、水戸学(尊皇思想、天皇第一思想)の基礎をつくりました。
水戸学は、幕末には、尊皇思想が尊王攘夷運動に発展し、明治政府を生むことになりました。
397巻よりなり、1906(明治39)年に完成しました。
【注】
黄門は中納言の漢名です。中納言は、法令にはない官名です。
諸国漫遊はしませんでした。
冲方丁(うぶかた とう)『光圀伝』
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