存応(ぞんのう、源誉存応、1544-1620)は、鎌倉時代の存貞の弟子です。
<※ 存貞は、蓮馨寺初代で、増上寺第10世です。 >
存応は存貞に従い、鎌倉から蓮馨寺に移り修行します。
後に大本山・増上寺の第12代目法主(ほっす)になります。
1590年、徳川家康が入府すると、存応は親交を深め、
徳川家を増上寺の檀家にしました。
増上寺中興の祖といわれます。
1610年、存応は徳川家の推薦で、朝廷より 「観智国師」という称号を受けます。
国師は国中でただ一人のみに授けられます。
大学者であった
存応が、喜多院の天海と論争をしたとの記録が残っています。
天海も学識深く、家康の宗教顧問でした。
1616年、家康が没すると、存応は 増上寺で葬儀の導師を務めました。
存応は、壇林の制度を整えました。壇林は僧侶養成大学です。
関東には18檀林あり、蓮馨寺もその一角を占めます。
存応の弟子に呑龍(どんりゅう)がいます。
存応の増上寺に徳川6将軍が、天海の寛永寺に6将軍が埋葬されています。
ともに川越の高僧がかかわっています。
存応の長伝寺
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