Thứ Tư, 6 tháng 2, 2013

近藤勇:新しい日本を先取りした新選組の隊長。八王子千人同心

近藤勇の肖像(写真1)拡大画像
近藤勇  :NDL
千人同心は多摩のあちこちに!
八王子千人同心  :小平市図書館
多摩地方は、徳川家の天領(将軍の直轄地)でした。
徳川家康は、江戸が万一攻められた場合、直ちに脱出できるように多摩のある甲州街道を江戸から直線的に建設しました。

徳川家康は、精強な元の武田騎馬軍団を八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)に編成しなおし、有事に備えました。
西からの敵に備えるためでもありました。
八王子千人同心は、普段は農民ですが、ことあると武士に変身するいっしゅの郷士(ごうし)でした。

日光東照宮のきびしい警備にもあたりました。
八王子から日光への千人同心街道もつくりました。

1800年ロシアの接近にそなえ蝦夷地にも進出しました。
苫小牧の基礎は八王子千人同心が築きました。

多摩人には、将軍に直接仕えているという誇りがありました。

多摩はまた日本の主要輸出品の生糸の大産地で経済力もありました。

◇                    ◆                    ◇

近藤勇(いさみ。1834- 1868、34歳)は、多摩の農家に生まれました。
16歳の時、剣術道場に入門、28歳で道場主になります。
土方歳三、沖田総司も道場に集まりました。
稽古のあとには、政治論議に花を咲かせました。

近藤勇は、30歳の時、幕府の浪士組募集に仲間8人と応募します。
旅立ちにあたって、家族、道場の世話を地域の名主に託します。
近藤勇と多摩の強い絆はずっと続きます。
京都で自由に動けたのも多摩の同志、資金の支援のおかげです。

ところで、攘夷派は2派にわかれていました。
公武合体派は、孝明天皇、幕府(一橋、会津、桑名)、新選組です。
親・幕府+親・朝廷で、かつ攘夷という派です。
近藤勇たちの多摩は天領(将軍領)でしたので、幕府を、朝廷とともに、たてました。

尊王攘夷派は、長州、土佐、過激派公家のグループです。
天皇中心、反・幕府で、攘夷という派です。

1864年に京都池田屋に志士らを襲撃し、一躍天下に名を知られるようになります。

1868年鳥羽・伏見の戦いが京都で起こります。
徳川幕府軍対薩摩・長州軍の戦いです。
新選組は幕府軍の一員として戦いますが、徳川方は、惨敗します。
勝った薩摩・長州軍は錦の御旗が上がり、官軍となります。

新選組は賊軍となります。

 甲州勝沼の戦い:http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-entry-385.html

近藤勇たちはいったん江戸へ戻り、薩長新政府軍を迎え撃つために甲州へ向かいます。

しかし、甲府城は新政府軍に抑えられていました。
近藤勇は東へ転戦しますが、千葉県流山(ながれやま)でとられられます。

新選組は、地域、藩、身分を超えた草の根の仲間の集まりでした。
そこには日本人意識も芽生えていました。

江戸から明治にかけては、武士の力が弱まり、庶民、農民が世の中を動かす力を持つようになりました。
あたらしい日本の姿を先取りしたのが新選組でした。
薩長の敵・近藤勇は不当に名前をおとしめられたままです。

のちに多摩で自由民権運動が盛んになりますが、ルーツは新選組にあります。
多摩人の意識の高さはいまに至っています。

甲州街道の終点は下諏訪

近藤勇の墓  会津若松市東山

【cf.】新選組、NHK、2012/1/12など

Không có nhận xét nào:

Đăng nhận xét