後北条の三つ鱗と葵の御紋。蓮馨寺 |
後北条の勢力図 (※) |
戦国北条(後北条、小田原北条)のミツウロコが、
徳川の葵(アオイ)の御紋と並んで配されています。
1寺に2大藩の家紋を許された珍しい例です。
蓮馨寺は1549年に蓮馨尼(れんけいに)が上尾市に建てたものです。
徳川家康の江戸入府の50年も前のことです。
蓮馨尼は河越城代・大道寺政繁(だいどうじ まさしげ)の母と言われています。
大道寺政繁が、蓮馨寺をいまの地に移しました。
◇ ◆ ◇
大道寺家は、北条早雲以来の戦国北条の重臣です。
戦国北条は、1546年の河越夜戦(かわごえ よいくさ)で、上杉勢に勝利します。
大道寺家は1546年から1590年(秀吉の小田原城攻略)まで、
3代40年間にわたり河越地域を支配します。
蓮馨尼、大道寺家、蓮馨寺初代住職・存貞、存応も小田原出身です。
存貞も存応も大本山・増上寺の法主(ほっす)に大躍進しています。
存応は徳川家康の信頼厚く、徳川家を増上寺の檀家にしました。
増上寺には6人の将軍が埋葬されています。
関東域を治めた戦国北条は領民にやさしく、
税金も引き下げたので、慕われ感謝されました。
戦国北条と親しかった徳川家康は、
豊臣秀吉の命で自害した大道寺政繁の子供らをあずかりました。
大道寺政繁の長男は2代徳川秀忠に仕えました。
徳川政権は関東域に底流する後北条びいきを
認識していました。
今後、川越からは、江戸ばかりでなく、それ以前の後北条の要素も発掘されるでしょう。
戦国北条びいきの地域、小田原、相模、埼玉、群馬とのつながりが豊かになりそうです。
◇ ◆ ◇
※
・蓮馨とは、「極楽浄土の蓮の香り」のことです。
・城代とは、城主の代理のことです。
・戦国北条は、小田原北条、後北条ともいわます。
1491年- 1590年の100年間にわたり、戦国大名として君臨します。
・小田原北条は鎌倉北条とは無関係です。
関東一円の支配のためには、「北条」の名が有利にはたらくと考え、あえて「北条」を名乗リました。
・河越は江戸時代に入り、「川越」となりました。
【川合善明(川越市長)日誌 2012年】
◆5月9日(水)
5月3日、小田原市に招かれて「小田原北條五代祭り」に行ってきました。
戦国時代後半、小田原城を中心に関東一帯に勢力を有した戦国大名の(後)北條氏にちなむ祭りです。
圧巻は北條五代武者行列で、小田原市民や北條氏の縁でつながる八王子市や寄居町の方々が武者姿で行列する参加者の多さに驚きました。
川越も実は北條氏綱から氏直までの間、(後)北條氏の勢力下にあった時代があります(にわか勉強)。
太田道真・道灌が川越(当時、河越)城を築いたのは主君の扇谷上杉氏の命によるもので、川越城は上杉氏の居城であったところ、1537年に北條氏綱に よって上杉氏が駆逐されました。
その後、上杉氏が北條氏から川越城を奪還しようとして有名な川越夜戦(1546年)が行われました。
8千の北條軍が、約8万の上杉・足利連合軍を破った川越夜戦の主戦場は、現在の東明寺の近くだったということで、東明寺には川越夜戦の石碑があります。
というわけで、川越市も小田原北條五代祭りに招かれたわけです。
今回、小田原へ行ってもう1つ驚いたことは、この祭りが小田原市観光協会の主催であることと、観光協会会長が私よりかなり先輩と思われる女性で、風魔忍者のいでたちで現れ、大変茶目っ気のある方であったことです。
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