Thứ Bảy, 20 tháng 4, 2013

浅野七之助:戦後日本の飢餓をララ物資で救った岩手人

浅野七之助 ※盛岡市
岩手県の盛岡は偉人賢人を輩出しています。
「盛岡市先人記念館」には新渡戸稲造(にとべ いなぞう)、米内光政(よない みつまさ)、金田一京助をはじめ130人ほどの先人たちの遺品や資料が展示されています。
宮沢賢治、石川啄木、野村胡堂も盛岡人です。

「盛岡市先人記念館」にはわたしたち世代の命の恩人・浅野七之助さんも展示されています。

◇                    ◆                    ◇

1944年、わたしは、いずれ焼け野原となる東京を逃れて、兄とふたりで三重県の片田舎へあずけられました。
小津安二郎監督の住んでいた村です。

1946年三重県の津に移り、小学校に入りました。
教室が足りないので、2部授業でした。
廊下授業もふつうでした。
窓ガラスはなく、代用ガラス(網戸にのりをはったもの)でしたので、廊下と教室の声はつつぬけでした。

1年生の時はガリ版刷りの国語の教科書は「アカイ アカイ アサヒ」とカタカナで記されていました。
当時は漫画もカタカナでした。
蝶々は「テフテフ」でした。

2年になって突然ひらがなの教科書になりました。
カタカナは軍国主義を助長するからとのことでした。
文字が変わり、外国人になったような気がしました。

学校は午前で終わったり、午後から始まったりでした。
その時々で来ない者も多くいました。
食べるものがありませんでした。
栄養失調で動けませんでした。

しかし、ある時から学校がみんなにとって楽しみに変わりました。
無料給食が始まったのでした。
さいころ4つ分ぐらいの分厚いチョコレートが出たことがありました。
コッペパン、ミルクが出るようになったのです。
天国降誕です。

ある者は、給食時間にだけ学校にきたりしました。
それまでは、登下校の途中で草花虫野菜芋や木の根ですきっ腹をいやしていました。
米、イモなど食べるものはありませんでした。
(わたしたちが下の世代よりも身長が10センチ低いのはこのためです。)

わたしたちの学校を天国にしてくださったのが、原敬の書生をして、アメリカに渡った浅野七之助さんです。
浅野さんの「ララ物資」でわたしたち児童は学校が好きになり、体力を維持できました。
浅野さんはわたしたちの世代の恩人です。

ミルクもコッペパンも何もかもおいしかったです。

たくさんの仲間の命がつながりました。

オありがとうサマ、浅野さま。

ララ物資の父、浅野七之助 【14】


盛岡市先人記念館

The secret of January 22 - Curry Day (カレーの日)



【追】
わたしたちのキョウーダイは、5-6人がふつうでした。
お国が親に「生みなさい」といったからでした。

戦後は「日本が貧しいのは人口が多すぎるからである」といわれました。

今は、「生まないから日本は滅びの道を走っている」とおどされています。

上の方やメディアは、「英語を話せ。海外で稼げ」とあおっています。

日本は進んだ大国です。
日本1国で西欧全体に匹敵します。
 <※ このことを、梅棹忠夫先生が、わたしの学生時代から唱えていました。>

普通の日本人がなすべきことは、自分のいるところを深く掘り続けることです。
それがグローバリズムにつながります。

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