岩瀬忠震(ただなり) : WP |
1857年、タウンゼント・ハリスが江戸にやってきて、通商条約を結ぶことを要求します。
ハリスとの交渉にあたったのが、岩瀬忠震(ただなり)でした。
岩瀬忠震(ただなり)は、30代の若さで目付けに抜擢され、講武所(のちの陸軍所)、蕃書調所(ばんしょしらべしょ、のちの東京大学)の開設、品川の砲台の建設にかかわリました。
長崎に海軍伝習所(のちの海軍)をつくりました。
勝海舟や小栗忠順(ただまさ)をアメリカに送りました。
岩瀬忠震(ただなり)は、外務官僚のトップでした。
外国文明を吸収し、貿易により西洋に対抗しようという考えでした。
横浜開港を老中・堀田正睦(まさよし)に提案しました。
老中・阿部正弘がペリーが来た年に岩瀬忠震(ただなり)を抜擢しました。
岩瀬忠震(ただなり)は、林大学頭を叔父にもち、叔父のやってきたことを見てきました。
伊達政宗の子孫でもありました。
伊達政宗の子孫でもありました。
情報収集能力の高い日本は、アヘン戦争、アロー戦争で清が亡国の状態にあることがわかっていました。
岩瀬忠震(ただなり)はハリスと条約の草案をまとめました。
しかし調印を前に水戸斉昭(なりあきら)などの攘夷派が激しく抵抗しました。
老中・堀田正睦(まさよし)と岩瀬忠震(ただなり)は、孝明天皇の許可を得れば、攘夷派を抑えられる考え、孝明天皇に謁見しました。
答えはノーでした。
勅許の失敗で、堀田正睦(まさよし)は失脚し、大老・井伊直弼(なおすけ)が実権を握りました。
そんな中、アロー戦争の最新情報がもたらされます。
「英仏連合軍が5日以内に、来日し、日本に不利な条約の締結を迫るだろう。」
岩瀬忠震(ただなり)は、ハリスに頼みます。
「日米条約を調印します。だから、英仏がやってきたら、なにがあってもアメリカがなかに入ることを誓約してください。」
ハリスは誓約し、現場判断で岩瀬忠震(ただなり)は日米修好通商条約に調印します。
<※ 志をもって、多数意見を無視することも、時代は求めていました。>
岩瀬忠震(ただなり)は、左遷幽閉されます。
2年後病死します。44歳。
ここから井伊直弼の安政の大獄が始まり、開明派の人たちが次々と処分されて行きました。
このあと攘夷派による生麦事件、薩英戦争、下関戦争が勃発し、幕府が責任を取らされました。
その結果、条約の関税率は20%からわずか5%に引き下げられ、
日米修好通商条約は不平等条約になってしまいました。
しかし、アジアで実質的に植民地にならなかったのは、日本だけです。
岩瀬忠震(ただなり)の尽力も大きくあずかり、
日本は、戦争もせず、国際関係でソフトランディングをしました。
<※ 明治政府は、岩瀬忠震(ただなり)を無視しました。>
資源もない、国力もない、資金もない、ないないづくしの日本でしたが、
人材はいました。
これからの日本も、第2、第3の岩瀬忠震(ただなり)を必要としています。
ハリスは交渉について語りました。
「岩瀬忠震(ただなり)は機敏で、反論を次々出してきた。
わたしは論破され、修正する条項を多く抱え込んだ。」
わたしは論破され、修正する条項を多く抱え込んだ。」
(※)アロー戦争(1856- 1860)
イギリス・フランスが、清に対して行った侵略戦争です。
広州、天津、北京を占領しました。
1842年の南京条約後、期待に反し製品の輸出がのびなかったため、戦争をしかけました。
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