斎霊殿(さいれいでん)は喜多院の葬儀場。
裏には墓地が広がる。
製茶機の発明家・高柳謙三や幕末の尊攘運動家・西川練造の墓も。市の有形文化財。
裏には墓地が広がる。
製茶機の発明家・高柳謙三や幕末の尊攘運動家・西川練造の墓も。市の有形文化財。
以下:
7 仙芳仙人塚 http://goo.gl/maps/mC1KI
8本地堂跡 http://goo.gl/maps/1vOxU
9 三変土田稲荷神社 http://goo.gl/maps/z2wO9
10 龍池(りゅうち)弁財天 http://goo.gl/maps/xKMSa
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1. 白山権現(はくさん ごんげん):喜多院正門前、天海僧正像の左。
白山(石川県白山市)、富士山、立山と共に日本三霊山のひとつ。
修験場の霊場・白山より分霊(のれん分け)。
修験とは神と仏双方の力を得るための修行。
権現(ごんげん)とは、仏のなりかわり。
喜多院創建時に慈覚大師・円仁がまつる。
円仁(794- 864)は、天台宗を大成させた比叡山延暦寺第3代座主(ざす)。
最澄の弟子で、密教を学んだ最後の遣唐使。
『入唐求法巡礼行記(にっとう ぐほう じゅんれいこうき)』は、玄奘(げんじよう)「大唐西域記」、マルコ・ポーロ「東方見聞録」とともに、三大旅行記のひとつ。
9世紀の中国の文化、社会、風習についての7万字にわたる貴重な史料。
駐日大使ライシャワーが英訳して人口に膾炙。
◇ ◆ ◇
2 天海大僧正像:喜多院正門前
天海は、徳川家康の信頼あつかった宗教顧問。
家康もたびたび喜多院、川越城へ。
2代秀忠、3代家光の相談役としての大役も。
108歳まで長寿。
家康への養生訓「気は長く 勤めはかたく 色うすく 食ほそうして こころ広かれ」は有名。色とは欲のことか。
ここの説明板は、横書き、西暦、ふりがなつき、ですます調で、今後の手本に。
◇ ◆ ◇
3. 明星杉
3. 明星杉
尊海が、近くの池からの光が、杉にかかり、明星となるのを見て、堂を建て、星野山(せいやさん)と名付けた故事による。
尊海(1253- 1332)は兵火で荒廃していた無量寿寺(喜多院、中院)を再建。
ときがわ町・慈光寺、比叡山を経て、無量寿寺(喜多院、中院)の住職に。
◇ ◆ ◇
4.日枝神社
赤坂の山王日枝神社の親神社。
かつては、慈眼堂と同じ古墳上に。県道が分断。
拝殿脇に底なし穴と言われる井戸の跡が。
この井戸にお札を納めると、龍池(りゅうち)弁財天の池に浮き出たという言い伝えが。
赤坂の山王日枝神社は、太田道灌が1478年ここから分霊(のれんわけ)。
≪ 赤坂の山王日枝神社 ≫
比叡≒日枝(ひえ)≒日吉(ひよし、ひえ)。
日吉大社は比叡山を守護。
◇ ◆ ◇
5 喜多院学寮跡
修行僧の学寮跡。
ここもかつての広い境内の境界内に。
喜多院は徳川家の手厚い庇護を受けていた。
地図:http://goo.gl/maps/nT6WA
◇ ◆ ◇
◇ ◆ ◇
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http://goo.gl/maps/eFqD
尊海(1253- 1332)は兵火で荒廃していた無量寿寺(喜多院、中院)を再建。
ときがわ町・慈光寺、比叡山を経て、無量寿寺(喜多院、中院)の住職に。
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4.日枝神社
赤坂の山王日枝神社の親神社。
かつては、慈眼堂と同じ古墳上に。県道が分断。
拝殿脇に底なし穴と言われる井戸の跡が。
この井戸にお札を納めると、龍池(りゅうち)弁財天の池に浮き出たという言い伝えが。
赤坂の山王日枝神社は、太田道灌が1478年ここから分霊(のれんわけ)。
≪ 赤坂の山王日枝神社 ≫
比叡≒日枝(ひえ)≒日吉(ひよし、ひえ)。
日吉大社は比叡山を守護。
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5 喜多院学寮跡
修行僧の学寮跡。
ここもかつての広い境内の境界内に。
喜多院は徳川家の手厚い庇護を受けていた。
地図:http://goo.gl/maps/nT6WA
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http://goo.gl/maps/eFqD
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