Chủ Nhật, 30 tháng 9, 2012

朝鮮とベトナムは、常に中国が脅威



中国の近隣諸国は、隋(581- 618)、唐(618- 907)のような大陸を統一する大帝国ができると、大きな畏怖と衝撃を受けます。

逆に中国が四分五裂の状態が続くと膨脹政策をとることができないので安心です。
近隣諸国にとって、中国が分裂状態の方が望ましいのは、今も変わリません。

日本でも 、中国からの脅威を感じ、聖徳太子の摂政政治(593)から大化の改新(645) に至る過程で、これまでの部族国家をにわかづくりの統一国家に仕立て上げました。

統一日本の歴史はこの時期に始まります。

日本と似た環境のフィリピンは、わずかに中国から遠かったために、脅威を感じず、スペインに支配されるまでのんびりと部族国家(村=国)のままでした。

漢民族は、海が苦手で、台湾へ最初に進出したのも、中国ではなく、オランダでした。
しかもそれは中国の長い歴史から見れば、つい最近の1624年のことでした。

日本と比べ、中国と地続きの朝鮮半島の場合、混乱はもっと深刻でした。
隋の侵攻を受け内乱が続きました。
やがて新羅が唐の支援を受け、百済を、次いで高句麗を滅ぼし、半島を統一しました(676年)。

唐の時代には、668年に北朝鮮のピョンヤンが唐の直轄領となり、安東都護府が置かれました。

都護府とは、唐が設けた中国辺境異民族の統治機関です。
都護(長官)のもとに、地元の王を地方官に任じて、間接的な支配をおこないました。


以後朝鮮半島は20世紀初頭に至るまで中国の儒教体制の優等生となり、ミニ中国国家となりました。


ベトナムは以前から中国の支配を受けていましたが、中国の国力が弱いと一揆、反乱を起こし反発していました。

しかし、隋の出現と同時にきびしい攻撃にさらされました。

唐の時代には、679年にハノイが直轄領となり、679年安南都護府 が置かれました。

唐がほろび宋(960- 1279)の時代になると、ベトナムは宋帝国に恭順の姿を示すことにより、リ王朝を1009年におこし独立しました。

このように中国にとり、ベトナムと朝鮮は自国の内庭のようなものでした。

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