Chủ Nhật, 30 tháng 9, 2012

歴史の中の東北の重みの認識を(NK2011/5/15)


(中外時評)「東北の受難」に終止符を 復興に欠かせぬ歴史認識 論説副委員長 大島三緒

2011/5/15付
日本経済新聞 朝刊
1799文字
 明治維新のとき、奥州の会津藩は新政府から朝敵の汚名を着せられ悲惨な道をたどった。白虎隊の物語はよく知られているが、それだけではない。
 生きながらえた藩士らもまた、塗炭の苦しみを味わっている。虜囚の身となり、やがて下北半島に領地を与えられ斗南(となみ)藩を立てるが、そこには酷寒と飢えが待っていた。
 進まぬ開墾。常食は干した海草。犬の肉もむさぼり食べた。藩士の子で、後に陸軍大将になった柴五郎の回想記「ある明治人の記録」(石光真人編)を読めば痛憤のほどが分かる。
 「このざまは、まこと流罪にほかならず、挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」。昭和10年代の最晩年にあって、なお「ただ口惜(お)しきことかぎりなく」と吐露するのだ。
 会津藩ほどではなくとも、およそ東北諸藩は維新のさいに佐幕に回り、辛酸をなめている。
 奥羽越列藩同盟をつくって戊辰戦争を戦ったが敗退。新政府の高官は東北を「白河以北一山百文」などと蔑んだ。豊かな自然と独自の文化が息づくこの地域は、本領発揮の機会をながく失うことになった。
 繰り返される冷害と飢饉(ききん)。村々の疲弊に手を打てぬ中央政府。教育水準はなかなか東京に追いつかず、社会基盤の整備も遅れた。一方で、戦前戦後を通じ、そんな東北から無数の人々が東京に働き手として流れ込んだのである。
 それもこれも、はるか遠景となった――。そう感じていたのは、「東北の受難」を知らぬ者の認識だったかもしれない。
 こんどの大震災はこの地を凄絶なまでに打ちのめし、福島の原子力発電所事故と相まって、負の歴史を思い起こさせている。そしてまた、東京という大都会を下支えしてきた東北の役割を浮かび上がらせている。
 岩手県の大船渡から陸前高田へ。浜街道と呼ばれる国道45号をたどれば、津波で廃虚と化した町が次々にあらわれる。
 高台の避難所に逃げのびた人々は、このあたり出身の千昌夫や新沼謙治といった演歌歌手が慰問に訪れたとき、涙を流して迎えたという。若いときに故郷を離れ、やがて東京で名をなしたヒーローだ。
 そうした感慨はどの地方にも宿っていよう。が、高度成長期に集団就職や出稼ぎであまたの働き手を送り出した東北にとって、東京で「一旗あげる」ことの意味はとりわけ重い。
 東京で高校進学率が8割を超えた昭和30年代末に、岩手や福島では5割台だった。中学を出たばかりの15歳の子どもの半分は就職し、その多くが上京して「他人の飯」を食ったのだ。
 歯を食いしばって東京の、日本の繁栄を支えた。なのに今、未曽有の災厄にこの郷土は襲われている。そういう複雑な感情が被災地に漂っていることを忘れてはならない。それは、福島の原発事故の被害者にとって、より強烈なはずだ。
 思えば、原発のある福島県の浜通り地方には、かつて常磐炭田があった。京浜工業地帯に最も近い炭鉱だから一時は重宝され、やがて使命を終える。跡地に映画「フラガール」で知られる施設を設けたのも、地域の苦闘をあらわしていよう。
 そこに原発という、新たなエネルギー供給基地を立地したのは、ある意味で「自然」だったのかもしれない。浜通りは、石炭から原子力へとかたちは変わっても、大都市が使うエネルギーを送り出す役割を担い続けることになったわけだ。
 立地計画の浮上から数えれば半世紀。この原発は地域を崩壊させる事故を起こした。放射線を逃れて暮らす住民たちは、東京のための原発を受け入れたのに、ツケが自分たちに回ってきた不条理をかみしめている。
 たしかに、原発立地に伴う交付金で地域は豊かになった。しかしそこには、巨額のカネで原発にまつわる不安を封じるような不誠実さがにじむ。福島だけではない。原発や核燃料施設の多くは過疎地に建つ。往時、会津藩士が苦しんだ、かの下北半島もその最たる場所なのだ。
 震災発生から2カ月余。政府の取り組みは相変わらず心もとなく、さまざまな復興プランが浮かんでは消える。
 しかし、どんな道を選ぶにせよ「歴史のなかの東北」を、しっかり顧みる必要があろう。霞が関で決めた復興策をただ押しつけるようなら、受難の歴史を終わらせることはできない。
 奥羽越列藩同盟の思想には、明治政府から離れた共和国建設の構想もあったという。中世にさかのぼれば、奥州藤原氏が栄華を極めた平泉の「王国」もあった。東北は、自立の気概に満ちた土地でもあるのだ。
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